「駈込み訴へ」論  
             〈自己幻想〉の変質過程・〈対幻想〉を軸として

                                                     高山裕行
(はじめに)
  ここに一つの「駈込み訴へ」論がある。佐藤泰正氏「『駈込み訴へ』と『西方の人』ーイエス像の転移をめぐって」(注1)
 が、それである。この論文は、「駈込み訴へ」を論ずるのに〈対幻想〉という言葉を用いた、おそらく唯一のものであろう。私
 が注目するのも、その点である。氏は、この論文で次のように述べている。

   ユダの悲劇はすでに多くの文学者の語るところだが、太宰の独創はユダを単なる現実主義者、合理主義者ならぬ、現実家に
  して同時に理想家イエスに無償の愛を注ぎうる存在として捉え、両者の思想的角逐ならぬ〈対幻想〉の世界に浸るかとさえみ
  える肉感のひだに、マリヤとイエスのエロス的な愛の匂いをからませ、きわめて生々しい肉感のドラマとして描きえたことで
  あろう。

  ユダとイエスの〈対幻想〉の世界と氏は言われているが、では、〈対幻想〉とは何か。
  吉本隆明氏は、その著『共同幻想論』のなかで、「集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)」(注2)とい
 う表現をしている。つまり、〈対幻想〉とは、男と女の間に生まれるものだということである。
  佐藤氏はユダとイエスという男同士の間に「〈対幻想〉の世界に浸るかとさえ見える肉感のひだ」を見た。しかし、実際は
 そうではない。ユダとイエスではなく、イエスとマリヤ、ユダとマリヤの間の〈対幻想〉の世界が、ユダの行く末を決めたと
 は言えまいか。私は、この点に着目して、「駈込み訴へ」を読んでみたい。

                      1

  ところで、「駈込み訴へ」にはすでに多くの言及がある。敲矢とされるのは、渡辺芳紀氏「『駈込み訴へ』論」(注3)で
 ある。この論文は研究史としての記述も充実していて、同時代批評から昭和四〇年代にかけての「駈込み訴へ」論を系統的に
 紹介した最初のものでもある。氏は、次のように述べている。

     ユダのキリストへの裏切りを描いたこの小説には、ユダのキリストへの愛憎という一つの軸と、ユダとキリストとの対照
  というもう一つの軸を中心に世界が作りだされ、そこに、前期の純粋な、生活などには目もくれぬ、精神の王者をめざした
  太宰の姿と、中期の、生活に妥協を始めた太宰の姿とが投影され、結局、中期の世界に踏み入り、前期の己れを断ち切る様
  子が極めて象徴的に語られている

  極めて妥当な結論である。以後の「駈込み訴へ」論の多くが、渡辺氏の域を出ていないのもうなずけるものがある。しかし、
 氏が、〈数々の裏切りを通して、太宰は、人を裏切る時の錯綜した心理を幾度となく味わった。その時の悩みと苦しみ、心の
 葛藤を、ユダの裏切りの中に投影さしたのではなかろうか。〉という見方をされているのは決して間違いではないにしても、
 では、その〈裏切り〉の契機は何かということになると、答えは出てこない。
   また、ユダをどのように捉えるかという点になると、次のような指摘がある。
  
   ユダーいうまでもなくそれは転向者にほかならぬ。あるいは転向する主体、自我をいうのであり、その苦悩の表現がつまり
  はかれ自らの作品だということができる。(注4)

    ユダは純にして一途な理想家であります。愛の理想家であります。(注5)
                                                                
   ユダは、狂言師イエスに関わる唯一人の道化師として、本音を吐くごとく見事に美意識のみによる自己愛のドラマを演じ
  たのである。(注6)
                                                                              
 
  いずれも、一理ある指摘である。しかし、ユダが「転向者」であれ、「理想家」であれ、「道化師」であっても、彼がイエ
 スを裏切ったことは確かであり、〈裏切り〉にはそれにいたる契機が必要なのではあるまいか。どの論も、その契機を明らか
 にするには至っていない。
  この〈裏切り〉の契機について、「マルコ福音書」にはこのように書かれている。

   (ベタニヤで一人の女がナルドの香油をイエスの頭に注いだ。ユダを含む弟子達はその行為を非難した。しかし、イエス
  はその女の行為を逆に誉めた。)
  ここに十二の弟子の一人であるイスカリオテのユダは、イエスを売ろうとして大祭司連の所に出かけた。(注7)

  「マタイ福音書」にも同じ挿話が語られている。これではまるで自分がいったことをイエスが正当に評価してくれなかった
 から裏切ったとでもいえそうである。ただ、この二つの福音書では、具体的にユダが女を非難したとは書かれていない。その
 ため、ユダのこの行為はかなり唐突に感じられる。「ルカ福音書」ではこの挿話自体がなく、ただ過ぎ越しの祭の前に、「悪
 魔が十二人の数に入っていたイスカリオテと呼ばれるユダに入った。」とだけ記されている。「ヨハネ福音書」では、前記の
 挿話において女(マリヤ)を非難したのはユダだとした上で、ルカとほぼ同じ挿話を語っている。どうやら福音書においては、
 「ナルドの香油」の挿話がユダの〈裏切り〉を導くひとつのポイントのようである。太宰もまた、「駈込み訴へ」を書くにあ
 たって、この挿話に着目した。

                      2

  さて、話を前に戻そう。吉本隆明氏の言う〈自己幻想〉〈対幻想〉〈共同幻想〉を「駈込み訴へ」の世界にあてはめるとど
 うなるか。
  まず、ユダのイエスに対する思いは、いずれもユダの〈自己幻想〉にほかならない。また、ユダ以外の弟子達の考えは〈共
 同幻想〉ということができる。

   ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴の集まり、ぞろぞろあの人に附いて歩いて、背筋が寒くなるやうな、甘つたるい
  お世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大
  臣にでもなるつもりなのか、ばかな奴らだ。(注8)

  痛烈な批判である。ユダは〈共同幻想〉に自らの〈自己幻想〉を対置することで、〈共同幻想〉に戦いを挑んでいる。では、
 ユダの〈自己幻想〉とはいったいどういうものなのか。

     私はあの人を、美しい人だと思つてゐる。……あの人は美しい人なのだ。

   私はあなたを愛してゐます。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛してゐたつて、それとは較べものにならないほ
  どに愛してゐます。

   ユダはイエスを愛していると言う。これだけなら〈対幻想〉の領域だと考えられるかもしれないが、そうではない。なぜな
 ら、ユダは続けてこう言うのである。
  
   ぺテロやヤコブたちは、ただ、あなたに附いて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考へてゐるのです。けれ
  ども、私だけは知つてゐます。あなたに附いて歩いたつて、なんの得するところも無いといふことを知つてゐます。それで
  ゐながら、私はあなたから離れることができません。

  ここで、はっきりと、ユダが自分の〈自己幻想〉をぺテロたちの〈共同幻想〉に対置していることが分かる。ユダのイエス
 に対する〈愛〉は、ユダ自身の〈自己の内なる幻想〉そのものであり、それを〈共同幻想〉に対置することで、他の弟子たち
 を批判しているのである。続けてユダの告白を聞こう。

   私はあの人を愛してゐる。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を
  他人に手渡すくらゐなら、手渡すまへに、私はあの人を殺してあげる。…(中略)…私は天国を信じない。神も信じない。
  あの人の復活も信じない。…(中略)…あの人に附いて歩いて、やがて天国が近づき、その時こそは、あつぱれ右大臣、左
  大臣になつてやらうなどと、そんなさもしい根性は持つてゐない。…(中略)…私とたつた二人きりで一生永く生きてゐて
  もらひたいのだ。

  まさに独占的な愛の告白といえるだろう。ぺテロやヤコブが何と言おうと、ユダの愛には勝てない。〈自己幻想〉はそれを
 徹底的に〈共同幻想〉に対置するとき、〈共同幻想〉の侵入を許さぬ強固なものとなる。〈自己幻想〉と〈共同幻想〉はその
 時決定的に対立する。ユダの場合も同じである。他の弟子達がイエスを頂点として天国を期待するのに対して、ユダは「私と
 たった二人きりで」と考える。共同体なんて問題ではない。イエスと私、それだけでいいのだ。ユダはそう主張し、ペテロや
 ヤコブたちのイエス共同体と対立する。しかし、ユダの場合はその自己幻想にも、落とし穴があった。「あの人を他人に手渡
 すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。」と言うのがそれである。〈自己幻想〉の貫徹が死であるなら、
 それは決して勝利とは言えない。ユダの敗北、〈裏切り〉の下地はここにあったのである。
   とはいえ、〈裏切り〉の下地があったといっても、それだけで〈裏切り〉につながるとは言えない。そこから本当の〈裏切
 り〉に至るには、何等かの契機を必要とする。

                      3

  話はナルドの香油の挿話へと続く。
  太宰は、この挿話を「ヨハネ福音書」から採った。先に見たように他の福音書には、イエスに香油を注いだ女の名前は記述
 されていない。「ヨハネ福音書」だけが「マリヤ」という名を書き記している。また、彼女をしかったのがユダであるという
 のも「ヨハネ福音書」だけである。太宰が「駈込み訴へ」の多くを「ヨハネ福音書」に依拠していることは、赤司道雄氏「『
 女の決闘』と『駆込み訴へ』」(注9)でも、明らかにされている。しかし、太宰がユダの裏切りを描くのに「ヨハネ福音書」
 の記述を採用したのは、ただ「ヨハネ福音書」への関心が高かったからだけではない。そこに、ユダがイエスを裏切る契機を
 見つけ出したからである。もちろんそれは福音書自体には書かれていない。作者太宰治の想像の中にそれはあった。
   ここで、ナルドの香油の挿話が「ヨハネ福音書」ではどのように描かれているか、見てみよう。やや長くなるが、お許し願
 いたい。

    その時マリヤは混ぜ物のない、非常に高価なナルドの香油一リトラをイエスの足に塗り、髪の毛でそれをふいた。香油の
  薫が家に満ちた。弟子の一人で、イエスを売るイスカリオテのユダが言う、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧乏な
  人に施さないのだろうか。」ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、会計係であった彼は泥坊で、あ
  ずかっている金箱の中に入る物をごまかしていたからであった。イエスは言われた。「構わずに、わたしの埋葬の日のため
  にそうさせておきなさい。貧乏な人はいつもあなたたちと一しょにいるが、私はいつも一しょにいるわけではないのだか
  ら。」(注10)
   
  これでは、ユダはとんでもない人物だということになる。多くのイエス伝はこの挿話をもとにして、ユダを悪人だと決めつ
 けている。だが、太宰はそうはしなかった。ユダは悪人などではない。ぺテロたちの共同幻想に対して、イエスを我が物にし
 たいという自己幻想でもって戦いを挑んだ若者ということになる。しかし、太宰はこの挿話の後ろに、ユダの裏切りに至る契
 機を見出した。太宰の感覚の鋭さはここに顕著である。「駈込み訴へ」にはこう書かれている。

    「この女を叱つてはいけない。……(中略)……全世界、どの土地でも、私の短い一生を言ひ伝へられる処には、必ず、
  この女の今日のしぐさも記念として語り伝へられるであらう。」そう言い結んだときに、あの人の青白い頬は幾分、上気し
  て赤くなつてゐました。私は、あの人の言葉を信じません。……(中略)……その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の
  色に、いままで嘗つて無かったほどの異様なものが感じられ、……(中略)……あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、では
  無いが、まさか、そんなことは絶対に無いのですが、でも、危ない、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?

   イエスは、自分に香油をかけたマリヤに恋心を抱いたのではないか。ユダはそう思ったのである。ここに一つの落とし穴が
 あった。(注11)
   共同幻想に自己幻想を対置して戦いを挑むとき、戦いの貫徹にもっとも大きな障害となるのは、〈対幻想〉領域の侵入であ
 る。自己幻想に〈対幻想〉領域が侵入すると、自己幻想は大きく変質し、その戦闘性を失ってしまう。一つの例として有島武
 郎「或る女」をとりあげよう。
   「或る女」前編で、主人公・葉子は当時の社会通念に対して、自らの観念を徹底して対置する。〈共同幻想〉に対立する
 〈自己幻想〉は船の中でで勝利したかに見える。葉子自身も高らかに勝利の叫びを上げている。しかし、そこに船の事務長・
 倉地という男が出現し、葉子の心を支配し始めると、彼女の自己幻想は次第に変質していく。それが、はっきり表れるのは
 「或る女」後編である。後編に描かれる葉子は、前編とはがらりと変わった女性として登場する。そこには〈共同幻想〉に
 〈自己幻想〉を対置して、社会通念に戦いを挑む戦闘的な女性の姿はない。倉地との愛に溺れる、一人の女の姿があるだけで
 ある。
  この変化の契機が葉子の自己幻想への〈対幻想〉領域の侵入によることは明らかである。
 
                       4
  
   再び、「駈込み訴へ」に目を向けよう。
   ユダは「ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまふ鋭敏の才能を持つて」いる、と言う。その上で、
 「あの人が、たとへ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたといふことは、やつぱり間違ひ」ないと確信
 するのである。そして、「醜態の極」だと言い、「だらしが無え」と言う。問題はその後である。
   ユダはイエスの行為を批判するだけでなく、自らマリヤに心動かされていたことを告白する。「あの人は、私の女をとつ
 たのだ。いや、ちがつた! あの女が、私からあの人を奪つたのだ。」と錯乱した言葉を口走る。なぜユダは錯乱したのか。
 それはジェラシーが彼の心を捉えたからである。

    私は、口惜しいのです。胸を掻きむしりたいほど、口惜しかつたのです。なんのわけだか、わかりませぬ。ああ、ジェ
  ラシイといふのは、なんてやりきれない悪徳だ。……(中略)……ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまわつ
  た。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。死んだつて惜しくはない。さう思つたら私は、ふいと恐ろし
  いことを考へるやうになりました。悪魔に魅こまれたのかも知れませぬ。そのとき以来、あの人を、いつそ私の手で殺し
  てあげようと思ひました。

  ユダはここでイエスへのジェラシーを物語る。このジェラシーを抱かせた原因は、まさに「男・女のあいだの心」=〈対
 幻想〉にほかならない。こうして、イエスと二人だけの幸福を夢見るユダの自己幻想に〈対幻想〉領域が侵入してきた。そ
 して、ついに彼の自己幻想は、「あの人を殺して私も死ぬ」というところまで、追い込まれるのである。死を賭した自己幻
 想の貫徹とでも言おうか。しかし、ユダはまだはっきりイエスを裏切ろうと決心したわけではない。
   エルサレム入場のときの、イエスの姿を見て、ユダは「憐憫以外のものは感じられなくなりました」と言う。

    花は、しぼまぬうちこそ、花である。美しい間に、剪らねばならぬ。あの人を一番愛してゐるのは私だ。どのやうに人
  から憎まれてもいい。一日も早くあの人を殺してあげなければならぬと、私は、いよいよ、此のつらい決心を固めるだけ
  でありました。
 
  この時点では、ユダはイエスを殺すと言ってはいるが、それはイエスを自分のものとするための手段である。言い換えれ
 ば、ユダは自己の内なる幻想のイエスと生きようとしたのである。〈対幻想〉領域の侵入によって、彼の自己幻想は、〈イ
 エスと共に生きる〉から逆向きに走り出したのである。
   ぺテロたちのようにイエスを頂点とする共同体の持つ〈共同幻想〉に対して、イエスを自分のものにすることのみを念じ
 たユダの自己幻想は、〈対幻想〉領域の侵入によってそのもろさを露呈した。それでもユダは自己幻想に固執する。
   共観福音書に書かれた宮清めの場面で、その不可解なイエスの行動の目のあたりにしたユダは、次のように言う。

    もはやこの人は駄目なのです。破れかぶれなのです。……(中略)……わざと祭司長に捕らえられ、この世からおさら
  ばしたくなつて来たのでありませう。私はそれを思  つたとき、はつきりあの人を諦めることが出来ました。さうして
  あんな気取り屋の坊ちやんを、これまで一途に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑ふことが出来ました。

   ここに来てユダはついにイエスを他者として認識する。自分とともに生きる対象や、彼を殺して自分も死ぬという自他同
 一化の対象から、一人の他者としてイエスを捉えるようになる。〈対幻想〉領域の侵入によって始まったユダの自己幻想の
 変質は、来るべきところまで来たといっていい。ここまでくれば、〈裏切り〉へはあと一歩である。過ぎ越しの祭りの前日、
 ユダはとうとう決心する。

    あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為さう。けふまで私の、あの
  人に捧げた一すぢなる愛情の、これが最後の挨拶だ。私の義務です。私があの人を売つてやる。

   ユダの自己幻想はついに破綻した。それを共同幻想が取り込むのは容易である。
  
                       5
  
   最後の晩餐のとき、イエスは弟子の一人一人の足を洗った。ユダももちろん洗われた一人である。その時、ユダの心はぺテ
 ロたちと同一の地平にあった。一瞬の回帰である。

    あなたは、いつでも優しかつた。あなたは、いつでも正しかつた。あなたは、いつでも貧しい者の味方だつた。さうし
  てあなたは、いつでも光るばかりに美しかつた。あなたは、まさしく神の御子だ。私はそれを知つてゐます。

   イエスが足を洗ってくれたとき、ユダは天国を見た。いわばプリスの状態にあったと言っていい。この時イエスがユダに
 優しく手を差し伸べていれば、ユダはそのままぺテロたちとイエスに付き従ったかもしれない。が、イエスはそうはしなか
 った。「みんなが潔ければいいのだが」と言うイエスの一言が、ユダを現実に引き戻す。破綻した自己幻想は、そこで決定
 的に崩壊する。

    ええつ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらはれてゐる。売らう、売らう。あの人を、殺さう。さうし
  て私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐の鬼になりました。

  「復讐」とはいったい何に対する復讐であろう。きらわれているから復讐するのか。それはおかしい。「復讐」とは自分
 が相手から何かされたとき行われるものではないだろうか。愛する人を奪われたから復讐するというように。「きらわれて
 いる」と「殺そう」とはつながるかもしれないが、「きらわれている」と「復讐」はストレートにつながらないはずである。
 しかし、ユダはイエスにジェラシイ(嫉妬)を抱いていた。それも〈対幻想〉の領域を原因とするジェラシーをである。そ
 れなら「復讐」の対象になりうるだろう。ユダはこのとき「ナルドの香油」の挿話の場面を思い描いていたに違いない。か
 くしてユダの自己幻想は崩壊し、別のものに変わっていった。
  さらにイエスは追い撃ちをかける。「おまへたちのうちの、一人が、私を売る」とイエスは言い、ユダに自らパンを与える。

   私も、もうすでに度胸がついてゐたのだ。恥ぢるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。……(中略)
  ……火と水と。永遠に解け合ふ事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ。

  ここに至って、イエスへの愛は、どす黒い憎悪へと変わる。イエスへの愛を基調とするユダの自己幻想は、みごとに消滅し、
 暗い憎悪の念がほとばしる。そして、ユダはイエスを売る。

(終わりに)

  これまで、私は、ユダの自己幻想がどのように変化したかを見てきた。そして、その変質の契機、言い換えれば〈裏切り〉
 の契機を、ユダの自己幻想に対する〈対幻想〉領域の侵入に見た。
  前に「或る女」の例をあげたが、共同幻想に対して自己幻想を対置して戦いを挑むとき、〈対幻想〉領域は自己幻想の貫徹
 を阻害する要因として存在する。その〈対幻想〉領域が自己幻想に侵入すると、自己幻想は戦闘性を放棄し、変質する。その
 変質は、「駈込み訴へ」では愛→憎悪→裏切りという変化の道筋をたどる。本稿では〈対幻想〉を軸として、その点を明らか
 にしたつもりである。

(注)
1 「解釈と鑑賞」六二〇号・昭和五八年六月
2 『改訂新版 共同幻想論』 昭和五七年一月 角川文庫
3 『作品論 太宰治』昭和四九年六月二〇日 双文社出版
4 三枝康高「『駆込み訴へ』(「解釈と鑑賞」五〇四号 昭和四九年一二月)
5 山田晃「論語・聖書・愛ー「駆込み訴へ」雑記」
                          (『一冊の講座 太宰治』昭和五八年三月 有精堂刊所収)
6 佐々木啓一「『駆込み訴へ』ー自閉のなかの栄光と悲惨のドラマ」
                                        (『太宰治論』平成元年九月 和泉書院刊)
7 「マルコ福音書」第十四章十節 
    ただし、福音書からの引用は塚本虎二訳『福音書』(一九六三年九月 岩波書店)に依った。以下、同じである。
8 太宰治の作品からの引用は、筑摩書房版『太宰治全集』(山内祥史編)に依った。なお、漢字は新漢字に直してある。
9 『太宰治ーその心の遍歴と聖書』(昭和六〇年一一月 八木書店)
10 「ヨハネ福音書」第十二章
11 菊田義孝氏は、「ユダの心−「駈込み訴へ」と山岸外史『人間キリスト記』」(「国 文学」昭和五一年五月 學燈社)
 において、「イエスの中にマリヤへの恋愛感情を見て取ったということ、そのことを最後の契機として、ついに裏切りへと
 踏み切ったというのが……(中略)……太宰の解釈なのだ。」と述べられている。しかし、氏はその後のユダの心理分析へ
 とは進まず、「太宰の表現の仕方」へと話を変えてしまう。


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